home kita no neboshi dayori







 育児最中 雑想ノート

037 予定通りにいかないのが子育てなのダ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

職場や学校のように集団生活を送るために時間が決められていて、その中で過ごすことは束縛されることではあるけれど、案外楽なことだと思う。



育児休暇も3週間目に入って、家事の段取りもだいぶ分かり、ようやく一日の流れができてきた。

天気がよかったら、11時ぐらいから一歳の息子と公園に行き、たっぷり外で遊ぶようにしていると、2時ぐらいにはお昼寝ができる。
そして、ほぼ2時間寝つづけてくれるので、その間に夕飯の用意や洗濯物の片付けを済ませ、4時に保育園のお迎えに行くようにしている。


こんな調子で毎日が過ごせるようになれば楽になるな、とここ2、3日思っていたが、予定通りにいかないのが子育て。

今日は午前中にたっぷり寝すぎたせいか、お昼に3時間外で遊んでも、お昼寝はなかなか寝付けないでいた。
眠いことは眠いので、ぐずぐずしっぱなしなのだけど、なかなか寝付けない。
本もたくさん読んであげるが、なかなか寝付けない。
そうしてやっと寝付いたのは4時近かったのではないかな。
僕もうとうとしてしまったから、はっきり分からない。

はっと目を覚まして、時計を見ると、4時10分。
保育園のお迎えは、4時30分まで。

やっと寝付いたばかりの息子をひょいと抱き上げ、車に乗せて、あわててお迎えに向かったのでした。

2時間たっぷり寝ればご機嫌なんだけど、30分も寝むれなかった息子はちょっとしたことで機嫌が悪いこと、悪いこと。

子ども相手では、なかなか思った通りにことは運びません。
前頭葉も、かっか、かっかと熱くなってきます。



「都市化ということは、根本的に子どもを育てることに反する。」と、養老猛さんが、「超バカの壁 (新潮新書)」 の中で、子どもの問題を語っているけれど、そう、その通りだと思う。

予定したこと、計画したことが、予定通りに運ぶように仕組んでいく都市化した生活と、子どもを育てるということは正反対のことだと思う。


子育ての話ではないが、昔、駒ヶ根市に住んでいることがあった。
そこは黒い西瓜の産地で、夏になると青空市に西瓜が並んでいるのを買いに行くのを楽しみにしていた。
黒い西瓜は、とても甘くておいしいのだ。

ところが、ある年の夏のお昼過ぎ、その西瓜の産地の空だけ真っ黒な雲がわき、夕立がやってきた。
いくつもの雷がおち、5センチ大ほどの雹が降ってきた。
家々のガラスも割れるほどの雹だった。
夕立が過ぎ去ったあとの畑には、割れた西瓜、穴のあいた西瓜ばかり。
1時間ほどの夕立で、西瓜は全滅してしまった。

農家でもない僕もとても切ない気分でいると、翌日から農家の人たちが近所の家に西瓜を配っている。
割れていなくても、傷があるだけで1週間で腐ってしまうのだ。

僕も西瓜を山ほどもらい、残念でしたね、と声をかけると、その農家の方は、お天道さんのことだからしょうがないね、と笑っていた。
傷物の西瓜は、毎年食べていた西瓜となんら変わりなく、とても甘くうまかった。


農業と子育ては、自然を相手にしているという意味で、同じ価値観を持っていると思う。
農業も子育も、とても手間がかかるし、自分の思い通りにならないことばかり。
でも、一緒に過ごすことで新しい発見ばかりの毎日に、幸せな気分にさせてもらっている。




天気予報を見ていると、桜の話題が絶えないが、ここ長野県上田市の桜も、日曜日ごろから一気に咲き始めてきた。

          

お昼は近所の公園の桜の木の下で、息子と二人でお昼を食べることにしている。
すぐ目の前に流れている川に息子は夢中で、すぐふちまで行ったり来たり。
川に落ちないように、とあわてて駆け寄る僕の様子を面白がってけらけら笑うその目は、いたずらっ子そのものでした。


(2006.4.19)


まえへ
          つぎへ


北の子星だより
  kita no neboshi dayori